障がい者生活のセイタロウです。
このブログのこの記事をご覧くださりありがとうございます。
私は、頚椎損傷(受傷部位:C6)四肢麻痺という比較的重度な身体障害がある手動車いすユーザー です。
幸い頭は何とか無事だった?…ので、普段は障害のある方々の支援をする某障害者生活支援センターに勤務して相談支援業務を行っておりますが、そういった日々の業務経験を積み重ねるうちに、いつしか社会保障制度や社会福祉全般に詳しくなり、気が付けば社会福祉士という資格も取得することが出来ていたのです。
そんな私セイタロウが、そういった仕事を通じて、身体、知的、精神という障害がある方々の支援をさせていただくうちに、今まで気が付かなかったような様々な世の中の仕組みのようなものに注目するようになりました。
参考
セイタロウのプロフィール障がい者生活管理人&著者セイタロウの自己紹介
今後それら内容についてはこの【障がい者コラム】のコーナーで徐々に紹介していこうと考えております。
さて、今回の【障がい者コラム】は障がい者とその歴史について、というか、歴史的に見て障がい者は時代や文化によってどのような扱いを受けてきたのか?ということについて記してみようと思います。
こういった内容に、ご興味がある方やない方にとっても、“へぇ~”と言っていただけるようなお役にたてるような内容を目指して情報発信していきたい所存でございます。
突然に重いテーマの表題ですが、まずは歴史をさかのぼって事実上、実際にそうであったとされている内容につて、順を追って記して参ります。
まずは歴史をさかのぼって事実上の歴史的に見て、最古と言われている障がい者のお話です。
時をさかのぼること今から45,000年、先史人類のネアンデルタール人が住んでいた地、現代のイラクのシャニダール洞窟で発見された彼は、骨格の形状が先天的に大きく変形した重度の要害がある状態で、当時のネアンデルタール人の平均寿命を上回る推定50歳になるまで、比較的健康的に存命していた形跡があったとのことである。
このことから、ネアンデルタール人が障がいがある者に対しても助け合いながら、ともに命をはぐくみ合って生きていた姿勢が見て取れます。
また彼は、生前も周囲からある程度の敬意を持って接せられたことがうかがえる痕跡が見て取れるそうですが、死後も丁重に扱われていた痕跡も残っていたそうで、当時のネアンデルタール人が彼に対して、何らかの特別な感情を持って接したことがうかがえたそうです。
参考書籍はこちら↓
さらに高齢のネアンデルタール人が周囲の仲間から介護を受けて暮らしていた痕跡や、死後も手厚く埋葬されていた痕跡も見つかっているそうで、ネアンデルタール人がいかに命を大切に扱っていたかがうかがい知れます。
参考サイト:ネアンデルタール人も高齢者介護、墓地跡の調査で発見
次に紀元前5世紀頃からの古代ギリシア(スパルタ時代)のお話です。
当時、武力によって統治争いをしていた時代の最中にあったこの時代において、「生まれてくる子供≒将来の武力」という考えの下、市民が子供を産んでも勝手に育てられる時代ではありませんでした。
したがって当時のスパルタでは、子供が生まれると、その子が将来優秀な戦士として育つか否かという品定めが、長老によって行われていたそうです。
大変残酷な話なのですが、その長老による品定めによって生まれた子供に障がいがあると、将来国家を支える武力としての戦士、もしくは戦士を産めないといった理由で崖から落とされて殺されてしまったそうです。
大変残念なエピソードですが、第二次世界大戦末期の日本にも、直接殺されないまでも似たような思想が根付いていました。
まあ、スパルタも、大日本帝国も、ナチスドイツも一時はその強権的政治力で民衆に恐怖を用いて服従させ、爆発的な勢力拡大を展開しますが、やはり物理の法則からいっても、急激な拡大(膨張)力は、拡大力が限界に達した直後に逆行する作用が働いて、衰退する力によって収縮してしまう訳で、結果的に滅んで行ってしまったのです。
強引に結論付ければ、徹底した統制によって弱者を排除する文化が、いかに持続不可能な社会であるのか、歴史が正直に答えを導き出しているといえます。
そういえば、急成長する企業なども、競合するような弱小企業を価格競争で淘汰していき、急激な事業拡大をしていく訳ですが、自己中心的な思想によって多様性ある選択肢を顧客から奪っていく行為の結果、顧客の趣味嗜好の変化に柔軟に対応しきれないと、とたんに収益モデルが崩壊し、やがて急速に崩壊という同じ運命をたどります。
やはり、「多様性社会≒持続可能社会」というのは、密接な関連性があるようです。
ちょっと話がそれましたが、その他についても記載します…。
次に、イエス・キリストが誕生した紀元の時代直後のお話です。
イエス・キリストが現れて以降、キリスト教の博愛主義によって障がい児や障がい者はむやみに葬られることはなくなり、「哀れむべき人たち」へと立場が変わっていきました。
それが故にか、聖書には多くの障がい者が登場しています。
例えば視覚障がい者に対して、「彼が盲目なのは、彼やその両親が罪を犯したわけではなく、神の御業がこの者に現れたのだ…」といい、その者やその周りにいる者がその障がいを受け入れ、周囲の者がそれを助けることによって自分の成長に繋げるようにすることを促したのです。
つまり、神がその者と人々の成長のため与えた試練が、神が与えた御業の視覚障がいという解釈で、その者の過去や現在に対してではなく未来に目を向けなさい…ということについて教えています。
このキリスト教が現代世界における障がい者や社会的弱者に対する考えの主流となっているわけですが、キリストが誕生した紀元以降、様々な問題はあるものの2000年以上持続可能で発展した社会を繁栄させている現代世界の方向性は(ある意味全世界のキリスト教化を目指すアメリカの意向とも取れますが…)、戦争や紛争の火種となることも多々ありますが、今のところザックリいえば…おおむね間違っていないのかもしれません。
いずれにしても、障がいや弱者であると理由だけで、抹殺されることはなくなりましたが、それだけに「相模原障害者施設殺傷事件」は、持続可能社会を真っ向から否定するものであり、その思想が日本や人類そのものの未来繁栄を真っ向から否定する危険な考えとして、断固認めないものということと、ただひたすらに至極残念な出来事でした。
改めて、「相模原障害者施設殺傷事件」で亡くなられてしまった方々に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
※相模原障害者施設殺傷事件
2016年(平成28年)7月26日未明、神奈川県相模原市緑区千木良476番地にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の男A(犯行当時26歳)が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件。
引用元:相模原障害者施設殺傷事件(ウィキペディアより)
さて、歴史をたどっていくと思い出したくない出来事も出てきますが、気持ちを切り替えて次に行きます。
次なる大テーマは日本における障がい者の歴史について、神話なども含めて順に記してみたいと思います。
さて、お次は…いきなり神様にまつわるお話からです。
表題にも書きましたが、皆様は七福神の恵比寿様をご存知でしょうか?
西宮神社のご神体であり商売繁盛や福の神として知られる恵比寿様ですが、実はある言い伝えがあるのをご存知でしょうか?
このお話は、私がその昔通っていた大学の教授がお話してくださった内容ですが、詳しく調べると『日本の障害者・過去・現在および未来』(著者:河野勝行/1974年)の『蛭子(ヒルコ)神話』に記載されているそうです。
その蛭子神話によれば、日本書記に登場する神様である男神 伊弉諾尊(イザナギノミコト)と、女神 伊弉諾尊(イザナミノミコト)が恋におち、結ばれた結果にできた初めの子(神様)が蛭子(ヒルコ)神ということです。ざっくりいうと…です。
ところが、その蛭子神は生まれつき足が不自由だったらしく(おそらく脳性麻痺だと思われる)、三歳になっても立つことも出来なかったとのことで、大人の事情的な諸々の都合で、葦(アシ)で作った船「天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)」に乗せて、その時住んでいた磤馭慮島(おのごろじま)から風のまにまに放ち棄たれた…というか、そうするしかなかった、という伝説です。やはりざっくりいうと…ですが。
その後、風のおもむくままに流れ着いた先が摂津国(せっつのくに)の西宮という場所で、そこが西宮神社で有名な恵比寿(えびす)信仰の本拠地であり、夷三郎(えびすさぶろう)と名付けられて大切に育てられたそうです。
つまり、そういった神話が七福神の恵比寿様(神)(恵比須神・戎大神とも書きます)の伝説です。
ところで、恵比寿様といえばもちろん西宮神社ですが、もう一つ有名といえば「ヱビス(恵比寿)ビール」ですね。
ちなみに、私が初めてこのお話を伺った大学の教授は、「ヱビス(恵比寿)ビールに記載されている恵比寿様が正式な恵比寿様である」とおっしゃっておりました。
どういう事かと言いますと、その大学教授曰く「脳性麻痺であった恵比寿様は生涯立ち上がることは出来ず、左足には力が入らず、右足は立膝で踏ん張る事しか出来なかったようで、移動する時には、右足の立膝に力を入れて座った姿勢でいざって移動していた」とおっしゃっておりました。
教授が何の資料をお調べになった分かりませんが、それが故に、恵比寿様を立った状態で描かれていたり、彫像などで造形されている場合は、神話と異なる誤った解釈による表現であるともおっしゃっておりました。
そういった意味では、「ヱビス(恵比寿)ビール」はさすがといったところですね。
さて、お次は商売繁盛などの縁起物として飾られている、福助人形にまつわるお話です。
お店やご家庭などで一度はご覧になられたこともあると思いますが、実はこの福助人形には実在したモデルがいるというお話はご存知でしたか?
ちなみにこちらもわたくしが通っていた大学の教授から教えていただいたことなのですが、詳しく調べていくと実在の人物といことは事実なようですが、その元ネタに関しては諸説あるようです。
まずは呉服屋のゆるキャラという説ですが、私が教授から伺ったお話も「呉服屋だった…」と仰っていました。
詳細としては、京都にある農家に生まれ、ある年齢になって呉服屋へ丁稚奉公に行くようになり、名前は「彦太郎」というそうで、背が低く頭が大きかった(水頭症?)とのことでした。
彦太郎さんは大変真面目で、いつもにこにこしたとのことで、勤め先の呉服屋さんの店頭に座ってお客案へご挨拶をするうちに、彦太郎さんの人柄もあってかお客さんが増えていき、やがて彦太郎さん目当てにお客さんが来店されることもあったことから、今でいうゆるキャラ的存在として人気を博していたそうです。
そういったことから、「彦太郎≒商売繁盛の象徴」として目を付けた人々が、後に彦太郎人形を作成して店先に商売繁盛の象徴として置かれたのが、福助人形の由来…といった説です。
さてお次は武家の子供の遊び相手であったとする説です。
その者は農家の息子、佐太郎さんという名前だったそうで、成人した後も身長が2尺(約60cm)だったと云われており、頭部が体に比べてアンバランスに大きい、いわゆる水頭症であったと云われています。
佐太郎さんは、当初、身体的特徴の顕著な身体障害者を集めて、その者たちを観せる代わりに観覧料を得る「見世物小屋」で働いていたそうです。
ちなみに私セイタロウが子供の頃には、年始や祭りになると地元の神社で、「牛女」とか「蛇女」との宣伝文句をうたった身体障がい者を見世物にした興行が普通に行われていましたが、江戸時代などはそういった奇形の人間を見世物にした興行が身体障がい者の「稼ぐ道」だったそうで、今の時代でこそ公共の福祉や、障害者年金や生活保護などのセーフティーネットもあり、障がいがあっても困ることが少なく生活できますが、当時の障がい者にしてみれば、必死に前向きに生きる選択種のひとつが、見世物小屋であったことは間違いありません。
それがゆえに、水頭症で頭が大きかった佐太郎さんも見世物小屋での興行を生業としていたそうで、誰が名づけたのか、当時の障がい者を示す「不遇者(ふぐうもの)」から>「ふぐもの」>「福者(ふくもの)」>「福助(ふくすけ)」となっていったそうです。
「ネガティブな表現を口にすると運気が下がる」といって読み方や文字をわざと縁起が良いものに変換する文化(言葉の持つ霊的な力を大事にする考え方=言霊(ことだま))があった江戸文化らしい「福助(ふくすけ)」の名前の由来ですが、その言霊の甲斐あってか、福助さんは大変な人気者であったそうです。
そして、福助さんに運命の出会いが訪れました。
たまたま福助さんのいる一座の興行を見に来ていたとある武家のお子さんが、「福助さんを家に連れて帰りたい」と懇願したことをきっかけに、その武家のお抱えとなったそうです。
現代で考えれば、人気者の「くまモン」や、「キティーちゃん」を、屋敷の召し抱えるようのものですが、「うちにくまモンがいるんだぜ!」ってなる訳ですから、プロ野球球団のオーナーになるぐらいのステイタスだったに違いありません。
そしてそのステイタスを維持するためには、もはや単なる子供の遊び相手では当然おさまるはずもなく、福助さんが死んでしまったり、出て行ってしまわぬように、高待遇をせざるを得なかったようで、お嫁さんまでお世話されて大切に抱えられていたそうです。
しかしそれが功を奏したのか、福助さんを大事にすればするほどその武家も栄えていったそうで、そういったことから「福助さんがいるからあんなに栄えたんだ」と、噂が噂を呼び、「福助=繁栄・繁盛」といったことが定着していったそうです。
やがて、福助さんのキャラクター化ビジネスに発展していったそうで、そこで生まれたのが「福助人形」ということで、現在に至るとのこと。
実はこの説が一番有力な説らしいのですが、私自身この記事を書いていて、とても書きごたえのあるサクセスストーリーで楽しかったのです。
是非、どこかの機関で「福助物語」として映画化されることを希望しますw
実はほかにも…もぐさ屋の番頭説というのもあるのですが、もうそれはどうでも良くなってきてしまいましたw
ちなみにもぐさ屋の番頭説は、滋賀県のもぐさ屋で、正直者で、裃を着け扇子を手放さず、商売熱心だった福助さんによって、もぐさ屋さんが大繁盛したという話を、京都の人形屋がサクセスストーリーを招く縁起物人形として売り出したという説です…ザックリ書くと。
いずれにしても、もはや障がいがなんとかって話は関係なくなっちゃいましたが、今も昔も、障がいがあっても本人の人柄と周りの助けがあれば、幸せに暮らすことが出来るのだという、障がい者でも幸せに生きる歴史の話となりました。
さて、お次は仙台四郎さんです。
このお方は、明治時代という今までで一番近代に実在した人物なので、信憑性のある書物や伝承が数多く残っています。
本名は、芳賀四郎さんと仰るそうで、生家は鉄砲職人の家庭で、その四番目の子として生まれたそうですが、四番目に生まれてたというだけで、安易な名前を付けられてしまったわけですね。
もともと裕福なご家庭であったそうですが、7歳頃に地元の広瀬川に落ちて、溺れ死にかけるも何とか一命だけは取り留めたものの、意識不明になってしまった時の低酸素脳症が原因で、脳機能障がいが残ってしまい、その後、脳機能の回復が見られなかったことと同時に発育の遅れも伴って、いわゆる知的障がいがあったということのようです。
それから四郎さんが大人になるにつれて、初めは馬鹿にされていた存在であった彼が、本来持っていた誠実さで周囲に接しているうちに、いつしか「四郎さんが気に入って掃除した店は繁盛する」と実しやかに噂されるようになったそうです。
噂が噂を呼び、いつしか四郎さんが掃除した店は逆に良い店という構図も出来ていったそうですが、それにあやかろうとワザと掃除してもらうように店先にほうきなどを置いていた店もあったそうですが、居心地の悪い店には一切見向きもしなかったそうです。
ひょっとして、四郎さんが立ち寄るから商売繁盛したのではなく、商売繁盛する素質がその店にあったから、四郎さんが立ち寄ったと考えるほうが自然かもしれませんね。
いずれにしても、そういった四郎さんの行いが「福の神」と呼ばれるようになった所以だそうです。
そして、四郎さん亡き後、店先に四郎さんの写真を飾ることによって商売繁盛を願うといった風習が、宮城県近隣に伝わっていったそうです。
ちなみに「福の神」と言われる四郎さんのお写真は、とても幸せそうなお笑顔をして写真に納まっていますが、30歳頃の写真だそうですよ。
以上、障がい者の歴史をテーマに記事をまとめてみましたが、歴史を振り返ってみると、障がいがあってもそれを障がいと捉えずに、日々自分の出来ることを精一杯発揮することによって、人生の道は自然と切り開かれていくものだということが良く解りました。
もはや障がいがあるから健常者より劣っているといった考えは、とてもナンセンスで、むしろ障がいがあるからこそ、それを生きるエネルギーに変えて行けるのだということが言えるようです。
だから人々は、障がいがあっても頑張って生きている姿を見て、生きる力を貰うこともあるのだと思いますが、障がいのあるなしに関係なく、頑張っている人から素直に活力を受け取れるように、自分の心持を整えることが生きて行く上で最も大切なことなのかもしれません。
人として生きて行く上で何が大事なのか、これをお読みくださった皆様は、どのようにお感じになるでしょうか…。
こんな記事ですが、何処かで何方かのお役にたてるものであったら嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。セイタロウ。
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